3.宮崎作品中の少女たちの共通点
3.1母性
母性というのは宮崎アニメにとって最も重要なキーワードである、宮崎作品の少女たちはとっても母性的であった。『パタンコパタン』のミミちゃんなど典型的であるが、『天空の城 ラピュタ』のシータ、『未来少年コナン』のラナなど、いずれも母性的である。典型的なシーンは少女が大人たちを相手にしても、母親同然に振り舞うシーンである。例としては『パタンコパタン』のミミちゃん、『天空の城 ラピュタ』において、海賊たちに食を用意するシータ、少女ながら大人の男たちの母親のように振り舞うシータや大きくなった子どもたちに指図するドーラ、多くの人にとってまさに母である。ナウシカも瀕死の兵士を胸に抱いて、悲しみに泣く城オジたちを胸に抱いていた、印象深い名シーンなど典型であるが。同様に、少女が母親同然に振り舞う姿は、強大な生物やロボットなどに命令するシーンにも見られる。例としては、『天空の城 ラピュタ』において、ロボットに命令するシータ、『さらば、愛しきルパンよ』において、ラムダに命令するマキ、ナウシカにおいて巨神兵に対して母であると宣言するナウシカ、このような母親的な少女はまさに宮崎駿氏の母親を表現しているようではないかという説もある。この点については、宮崎駿氏の弟の宮崎至朗氏の発言が参考になる。“兄が幼い頃のことですが、母が7-8年入院していたことがあるんですよ、寂しい思いをしたんでしょうね”。強く母性に憧れをもつ宮崎先生ならではのヒロイン像といえようか。カルティエネックレス
宮崎作品に登場する少女たちの共通点のひとつは母性的である、このような表現はまさに宮崎先生自身の強い母性への思いだからでないかと思う。
3.2逆境
身体に毒を受け、深い悲しみをもつ、どこか冷たい美しさがあるが不撓不屈の強い精神力をもつ。これはいうまでもなく、宮崎アニメの多くに共通するもチーフである。トトロにおける療養中の母。もののけ姫におけるエボシ。アニメ版ナウシカにおけるクシャナ。彼女達の共通点は、身体が不自由であり、ひどい経験があり、どこか冷たい美しさをたたえている点である。宮崎駿監督は、彼女達の詳細は語らず、ただ、こういう。
エボシは本当にかわいそうな女なんです。クシャナは本当にかわいそうな女なんです。彼女達が、どれほどかわいそうなのかは、ほとんど実際には説明されない。ただ、宮崎監督は、彼女達の苦しみを力説する。言うまでもなく、彼女達のモデルは、宮崎駿監督自身の母である。
彼女は、難病をわずらい、少年期の宮崎監督をおいて、療養生活を送った。母はどれほど、子供たちをおいて療養を続けることでさみしかっただろうか?しかし、子供から見れば、それは一層さみしいことだろう。「兄(宮崎駿監督)が幼いころのことですが、母が7~8年入院してたことあるんですよ。寂しい思いをしたんでしょうね」(弟の宮崎至朗氏談)おそらく、彼は、自分が、母に愛されていない子なのではないかと考えざるをえなかったのではないだろうか?ナウシカが、母は優しかったが自分を愛していなかったと考えざるをえなかったように・・宮崎駿監督は、当初、ナウシカに母を見ていたこれは、母性的なものへの憧れ、甘えが出ていたと思う。しかし、ナウシカと牧人との戦いの中で、おそらく、ナウシカが自分自身の深層意識に入り込み、自分自身と対決せざるをえなかったように、宮崎駿監督自身も、自分自身の深層意識に入り込み、自分自身と向かい合うことになった。その結果、ナウシカは、おそらく、「母は自分を愛してはいなかった」という言葉につきあたる。自然的なもの、母性的なものへの漠然とした憧れが、深層としては、自分が子供時代に抱えていた寂しさに起因する可能性に直面したのだろう。そして、風の谷のナウシカという作品は、根本的な変化を遂げる。自然や母性への崇拝から、生命論の物語へと。そこでキーになるのは、もはやフカイではない。
子供3人を生みながら長期療養しなければならなかった自分の母であり、11人の子供を生みながら、自分の体内の毒によって10人の子供を殺してしまったナウシカの母である。それは、宮崎駿監督の以下の、生命の誕生に対する認識の言葉ともひびきあっている。
「恐竜はいわゆる恐竜的進化の果てに滅びたと言われていたのが、このごろは違ってきました。ネメシスが因果応報の罰を与えたのじゃなくて、巨大隕石が地球に衝突して、それで滅びたとかね。地球が大地殻変動期を迎えて、大噴火を繰り返して、それで7割ぐらいの種が絶滅して、更新が行われたとか。地球はやさしくないんですよ。滅びたのは恐竜自身のせいじゃなかった。地球のせいだった。」
「カンブリア紀の爆発が偶然だったんだ。今の形も、自分たちが残っているのも偶然だったのだ」
つまり、当初は自然崇拝・母性崇拝であった物語が、以下の気づきと認識を受け、テーマが揺らいだのだ。
[1]母性への憧れは、母に対する寂しい思いから生まれていたという気づき
[2]生命とは、ある偶然の状況により誕生したものであり、やさしさから生まれたものではない。そのために、いろいろな矛盾を抱えながら生きていくものであり、業を背負ったものであり、残酷であり、絶望を本質としてもって言う認識
その結果、生命の本質とは母性賛歌で済むようなものではなく、生き物としての業をかかえながらも、それを乗り越えようとするものであるという結論に変わったのだ。
そして、ナウシカという物語は、自然の復活へという憧れ、母への憧れを捨てる。テーマは、業を背負ったまま、生命としていき続けることの重要性にポイントは変わる。毒をなくすのではなく、毒とともに生き続けること。母への憧れを追い続けるのではなく、愛情がない母であっても、その業を引き受けて生きていくのが生命であるということ。
ナウシカの母についての宮崎駿監督の発言集《宮崎駿全書》
「ナウシカのお母さんは、どうだったのか。決してナウシカに邪険にしたとか、いじめたとか、そういうことじゃないと思うんですよ。どこ かで、一番深いところではフカイ絶望があったんだと思う。
「ものすごく優しい人でしたが・・」といっているから、優しかったんですよ。村人にも、彼女に対しても優しかったと思う。でも愛するのとはちがうって。」
「例えばナウシカは、この子は何か傷をもっている子だなということは、前から思っていたから。そうすると、母は私を愛さなかったという方が、読者には唐突でも彼女の存在そのものと一致する。自分でも納得できる。
“逆境だからこそ英雄が出世する”。宮崎作品中の少女達の共通点は、身体が不自由であり、ひどい経験があり、どこか冷たい美しさをたたえている点である。この逆境こそ宮崎作品の人物創造が成功した最も重要な要素のひとつではないかと思う。現代人にも同じような思う通りにいかないときあるんだろう。それは人生のひとつの試練ではないかと思えば...
PR