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【2024/11/21 16:45 】 |
宮崎駿作品での女性像について(四)

4.宮崎監督の無意識的な思いの反映

4.1母親への思い

宮崎監督の女性表現は特徴的である。
[
1]親がいないこと(とくに母親がいなかったり、いても冷たかったりします。)chanelネックレス
[2]成人女性が傷をおうこと(クシャナ、エボシ、モンスリー)
これらは、宮崎監督の子供時代より、母親が大病だったことからきているようです。また、女性一人が大勢の男性を従える構図(ラピュタのドーラの他)というのも、4人男兄弟だったところからきているようです。
一方、少女が過度に母親的性質を担っているのも、同じだと思われる。
なお、老婆がよく活躍しますが(ドーラ、湯婆など)、年とった母親の介護が影響しているようである。
  4.2容姿への繊細な思い
  宮崎監督は、自身の容姿について、過度に自信が無いようである。
  そしてそれは、「異形のものと仲の良い少女」というテーマを生み出しました。(トトロ、オーム、ポルコロッソなど)
 そして、この「異形のものと仲の良い少女」というテーマは、「兵器への愛着」
というテーマと交じり合い、「巨大な力(兵器)の鍵を握る少女」という像を生み出した。
  ラナから千やソフィーに至るまで、女性は、常に自分以上の力の管理者であった。

宮崎作品において、女性を3つの表現をされている。
1.母親のような少女として
2.体に問題がある気丈な美しい女性として
3.元気な老婆として

さまざまな文学作品の中で、作者自身の経歴や感情を書き込むのは珍しくもない、宮崎先生も例外ではない。宮崎先生は作品に無意識に自分の感情を反映し、強く母性とリーダー的な女性への憧れを独特な手法で表現していた。

5.宮崎作品中の少女像を総括して分かったこと

宮崎作品中の少女たちを観察するだけで、彼女たちの特徴を発見するのは難しくもない。通常の映画や漫画、アニメに登場するヒロインの優しかったり、情熱的だったり、また、冷ややかだったり、さまざまだが、宮崎作品中の少女たちがそのような存在意義ではない、彼女たちは、聡明で有能な少女である。自分の夢を持って、真剣に努力し、自分の存在価値を体現している、彼女たちは自分の生き方、人生の苦悩がありながら、自分の道を自分の手で選んで成長してゆく。彼女たちは男女の関係など狭い領域を突き破って、社会一員として、彼女たちなりに自分の尊厳を持って、自分らしく生きていくといえるでしょう。

5.1少女の勇気と正義感、責任感

宮崎先生が創造した救世主は正義感、責任感があり、知性と勇気を持っている少女である、どんなピンチな状況の中でも、主人公の少女たちは絶対に仲間たちを捨てて逃げたりすることはない。ストーリーの懸念はこの一人の少女の力でみなを救うことができるかどうかってことだ。少女たちはいつも自発的に世界を救う責任を引き受ける、少女たちは人々を安心させて世界を救うのは使命のようであった。

現在、世の中、英雄や救世主がほしいと思う人は少なくないんだろう。宮崎駿の現実感覚は現在の世の中が失ってしまったものだ。だからこそ、アニメーションの中でそれを再構築した宮崎駿は読者の心を掴みとった。

世の中のみんなは英雄がほしいというわけが、まさに大変な時に自分を助けてくれるひとがほしいではないか。しかし、筆者が最近“情けは人のためならず”ということわざの誤解を勉強したときにわかったことですが、このことわざの正しい意味を以下の3つのどれでしょうか?

1)情けをかけるとその人のためにならない、情けをかけることに注意

2)人に情けをかけると、結局は自分にいいことがある。人には情けをかけるものだ

3)人間をかわいがっても、なんにもならない。犬や猫をかわいがった

ほうがましだ

正解は(2)だった。「答え(1)を選んだ人は10.20代が多い」という、

この正解について、ここで弁論する必要はないが、ただ一つのことが気になっていた、

英雄やヒーローは人を助かる前に、みんな自分になんかいいことがあるかどうかって考えていたのかな。筆者は人に情けをかけるのは自分にいいことがあるからこそかけるわけではないと思う。

宮崎作品中の少女たちの自発的な責任感や正義感、勇気は我々現代人が失っていたものではないか。

5.2少女の無邪気で利発

宮崎作品の中で、無邪気でかわいくて、かしこい少女が多い、『となりのトトロ』の少女サツキと妹のメイが親と一緒に田舎に引越した。病気で入院した母を見舞うため、父がいつも留守している。二人の少女は自分たちだけで周囲の新しい環境を知っていくしかない、妹のメイはトトロを見て、少しでも恐れず、親しそうにトトロをよび、のんきに話しかけた。言葉が通じなくても感情の交流に少し影響されていない、これは無邪気さがもたらす勇気ではないか、サツキはメイを背負ってトトロにぶつかった、少し恐れがっていたが、好意で傘を1本トトロに渡した。これは、善良さがもたらす勇気ではないか。母の病状が悪化し、帰宅することができなくなって、メイが林の中ではぐれて、サツキは古いゴムの木を探して、トトロにお願いし、猫バスを乗って、妹を探しに出た。トトロシンボルしている、奇異な生物はただ子どもだけがみることができる、それは夢が神聖なものだということを表現している。

現代の社会人にとって、まさにこの純潔な心が我々の失っていた大事なものではないか。

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【2011/05/17 17:55 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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